自転車徘徊紀行 第15話 秘境が呼んでいる~藤七温泉~

30年ほど前、はじめて椎間板ヘルニアを患ったときは、もちろん肉体的に強烈なダメージがあったのだけれど精神的にもひどくショックだったことを思い出す。
自分が若くないという事実に直面せざるを得なかったし、その頃の怠慢な生活を後悔したからだ。
歩くどころか、丸二日、なるべく動かず横になって過ごしながら、少し歩けるようになったら1ヶ月くらい湯治にでも行きたいものだと、勤め人にとっては実現しそうもないことを妄想したりした。
温泉と言えば東北地方に行きたいものだ。
なぜなら、その数年前に訪れた東北の印象が強く残っていたからだ。

5月の後半だったと思う、裏八甲田~奥入瀬~十和田~大湯~八幡平と走ったのだが、八幡平が最も走りたい場所であり、八幡平の頂上付近の秘湯、藤七温泉はぜひ泊まりたい宿だった。

朝一番、大湯のストーンサークルを見学し、縄文人の生活に思いをはせ、何やら深い感銘を受けた後、さわやかな新緑の中をひた走った。
秋田県側からの八幡平アスピーテラインの入り口近くで、昼飯のパン休憩中に急に雲行きが怪しくなって、ぽつぽつ落ちてきた。

その後は結構強く降られ、登るにつれて雨は上がったもののあたり一面濃霧に包まれてしまった。
初夏とはいえ、さすが東北、標高1500mにもなると道端には大きな雪の塊があり、身体が雨に濡れていることもあって、耐えられないほど寒い。
視界はほとんど10m以下、雄大な景観を期待していただけにがっかりだ。
しかし、天には逆らえないのであきらめるしかない。

藤七温泉はアスピーテライン最高地点から少しばかり下った所にあった。
平日とはいえ、(変な言い方だが)有名な秘湯だけに、泊客は結構多かった。

さっそく、屋内の浴室に入った。
数人の先客がいたが、皆、初老の人たちだった。
浴室の真中に湯船が有る構造だったように記憶している。

ジーンと凍えた身体を温めていると、隣の人が話し掛けてきた。
そのうち、持病のことや手術をしたことなど、健康面で苦労した話題になっていく。
ここに来ているのも体を癒すのが目的の様だが、少しも暗い感じはしない語り口だ。

当時、病気とはまるで縁の無かった自分であるし(出社拒否症になりかけたことはあったが)、しかも、自転車で移動するという、とても健康的な旅をしている自分としては、何とも場違いなところに来たという感じがしてしまった。(実際は、腹八分どころか十二分目まで飲み食いするという実に不摂生な旅なのだが・・・)
そのため、自転車で走ってきたことは言い出せなかった。

夜は、露天風呂に入った。
裸電球が薄暗く灯り、静寂に包まれた山の空気の中、ゆったりと湯船に浸かっていると、つめたい霧が頬をなでて行く。
何とも言えない風情である。

初老の方が一人、入ってきた。
その人は、退職後、奥さんとあちこち頻繁に旅に出かけて人生を楽しんでいるとのこと。
今回も関東方面から、徹夜で車を走らせてきたらしい。
この温泉で出会った人たちは皆さん、山の上までやってくるだけあって、前向きに生きていらっしゃる人ばかりであった。

翌朝も外は濃霧に包まれていた。
アスピーテラインへは戻らず、樹海ラインというコースを取った。
巨木の中をひたすら下るそのコースは、秋ともなればすばらしい紅葉に染まり、見事な景観であろうと思われた。
標高が下がるにつれて霧は薄れてきた。

下りきった頃、大きな渓谷にかかる橋で一服していると、雲の隙間から、突然、強い日差しが照り付けてきた。
そして、深い渓谷の斜面では、水滴をつけた樹々の葉が一斉に輝き、それがあまりに眩しくて、思わず目を閉じたのでありました。

※昭和から平成のはじめころ、勤務時間に上司の目を盗み、fjニュースグループに投稿した記事を追加修正したものです。