自転車徘徊紀行 第7話 九州縦断11峠越え

学生時代の長期休暇中、あまりに暇で、ぶらぶらしている事が罪悪であるような気がして、自転車の旅を始めたきっかけになりました。
しかし、ここのところずーっと、せいぜい2~3時間の日帰りサイクリングでお茶を濁すような状況が続いています。
1週間以上走りつづけたとき、日帰りの旅とは全く違う世界に浸っている感じがしたのですが、今でもその感覚が蘇る瞬間があります。
そんなとき、決まって思い出すのは夏の九州縦断の旅です。

1983年、学生最後の夏休み、キャンピング装備で九州の山岳地帯を縦断し、屋久島まで走る旅に出た。
大型のフロントバッグとサドルバッグ、そして、フロントにサイドバッグ2個を振り分けて、マスプロメーカー製ランドナーにまたがったのであります。
これだけの装備で走るのは初めてで、最初恥ずかしかったのですが、走り終わる頃には、自転車と自分の薄汚さ、貧乏臭さが誇りに思えました。

さてこの旅において、阿蘇、祖母、高千穂、椎葉、市房、西米良、霧島、国分へと走る間に、11峠を走破しました。

箱石峠~大戸の口峠~尾平越え~津花峠~飯干峠~飯干峠~湯山峠~横谷峠~尾股峠~輝嶺峠~軍谷峠~

その他にも小さい峠や名も無き峠があったかと思います。
うーん「我が青春の11峠越え」といった感じで、思い出せば懐かしくてジーンと来るもがあります。
結構、ハードであったはずですが、不思議とやめたいと思った記憶は無く、思い出すのは出会った人たちとの楽しい時間とキャンプ場の孤独な夜です。

高千穂のキャンプ場の近くの雑貨屋で何か食料を買おうとしたら、おばあさんが出てきて、飯を食ってけとおっしゃる。
遠慮無く上がらせてもらってご馳走になる。
そして巨大なナスビを頂く。
明日の朝も必ず寄れというので、キャンプ場で一泊した翌朝もご厄介になり、朝飯を頂く。
「これから椎葉にいくのか?それなら、旅館を予約してやるから」とキャンプしようか迷っていた私にかまわず電話してしまった。
「近所の○○さんが嫁にいっとる旅館だからね。安くしてもらえるよ」という。
「何、西米良にもいくんか? そんなら◎◎さんが法務局におるからね、手紙を持っていってくれ。もう20年くらい会ってないよ」とおっしゃる。
そんなことがあって、その90歳過ぎのおばあさんのおかげで、美人の女将さんのいる旅館に泊まり、法務局では昼真から焼酎をご馳走になり、そのまま泊めてもらうことになった。
そのときは、きっともう一度行くこともあろう、その時お礼を言おうと思ったのに。
もう15年(※)も過ぎ、記憶が薄れ、あのおばあさんの顔もお店の場所も定かではない。
ただ健在であることを祈るのみである。
※この文章を書いた当時なので15年。今年で39年も経つのだ。

えびの高原のYHで知り合った京都大学の自転車乗りと雨の休養日になった一日を卓球をしたり、ヒッチハイクして温泉に行ったりして楽しんだが、その2日後、彼とは桜島でばったり再会した。そして、その後、同じ業界で働く者どうしとなり、賀状のやり取りが続いている。しかし、なかなか再会は果たせない。

屋久島では海岸沿いを周回し、2箇所のキャンプ場でテントを張った。
夏も終わりに近いせいか、いずれのキャンプ場も全くの無人だった。
寂しい南海の島で、たった一人漁り火を見ながら過ごす夜は、耐えがたいほど孤独で寂しいものがあった。
しかし、朝、ポンポンという漁船の音で目がさめ、水平線から登る太陽を見たときは、実にすがすがしい気分だった。

これ以外にもいろんなことがあって、人との出会いは一期一会なんていうんですが、実感しましたです。
あとあと後悔したこともあったりしたなあ。
ここでは書かないけれども。
最終日、ボーっとしながら鹿児島行きのフェリーの甲板にたたずみ、遠ざかる屋久島と近づく桜島を眺めながら旅の終わりの余韻に浸っておりました。
さかんに飛魚が跳ねていた記憶があります。
鹿児島について輪行する直前、それまで過酷な旅に耐え続けてきた前輪のスポークがバチンと切れたのでした。

ロングツーリング万歳! これからも私も含めて皆んなが元気で無事に走れますように!

※昭和から平成のはじめころ、勤務時間に上司の目を盗み、fjニュースグループに投稿した記事を一部加筆修正したものです。