自転車徘徊紀行(第39話)秋来ぬと・・・

この季節になると、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」という歌が浮かんでくる。
この歌は、音に関連しているし、とても同感出来て好きなのだ。
いつの間にか季節が進んでいるのを、秋風の音を聴いてはッと気づいたというような意味だ。

私はこの歌のように秋風の音に気付いて秋を感じることもあるが、「無音」の中にも秋を感じることがある。
例えば、雲一つなく、風も吹かず、真っ青に晴れ渡った日の朝、平日の10時くらいかな、誰もいない家の畳の上に寝転んで、窓から差し込む斜めの日の光を見ながら、近所の子供たちは登校してしまったし、家の周りの路地にも誰もいない様な状況で、あまりに静かで、無音なのに「シーン」という音が聴こえる気がするときだ。
そんなとき、ああ秋が来たんだと深く感じる。
この感覚、小学校の頃、学校をずる休みして、一人で誰もいない家に寝転がっていた時に感じたのが最初だと思う。

気温や窓から見える空や差し込む日の光からも、もちろん秋らしさを感じるのだが、「シーン」という音が聴こえそうな静けさこそが、決定的な秋らしさを感じさせてくれるのだと、先日、ふと気づいた。
分析力のない頭で少し考えてみたが、この前まで、日の出から日の入りまで、うるさく鳴いていたセミの声を聴いていた頃の騒音レベルと、セミが全くいなくなった今の騒音レベルの落差が、この静けさを際立たせているのではないだろうか。

ニイニイゼミやアブラゼミから始まり、一番暑い最中には、クマゼミの大合唱、いつのまにかツクツクボウシが主役になり、結構うるさいはずなのに、慣れてしまうからだろうか、気にならなくなってしまうから不思議だ。
しかし、ふと気づくとセミの声の代わりに、無音の「シーン」である。
セミたちは、いついなくなったのだろうか、そして、知らぬ間に秋になっている。
窓から真っ青な空を見ながら、この「シーン」が聴こえたら、いつの間にセミがいなくなっていることに気づく。
そうして、「そうか、既に秋になっていたのだな」と驚くのである。

冒頭の歌に匹敵する秋を感じる瞬間と言っても良いと思うのだが、自分には短歌も俳句も才能がないのが残念だ。

この話と関係ないが、先日、日課のポタリング中に撮った写真だが、お世辞にもきれいと言えない八代海の向こうに沈む夕日だ。
雲と空の立体感が秋らしくていいなあと思った。
また、海に近い調整池には、冬を越すためにカモたちが飛来し、少しづつにぎやかになってきている。
あまりに暑くて、夏が終わらない気がしたけれど、確実に季節は進んでいると感じたのでありました。