自転車徘徊紀行(第32話)一杯の塩ラーメン
自転車旅行に凝り始めた40年以上前の話だ。
平地で育った私の憧れは信州だった。
春の四国一周などで経験を積んだ私は、その年の夏、小倉から大阪にフェリーで渡り、木曽路を通って山に分け入り、乗鞍、上高地、霧ヶ峰など、本州を縦断し、最後は川崎からフェリーで九州に戻るソロツーリングの計画を実行した。
乗る自転車はナショナル製のランドナー「ラ・スコルサ」である。
親のすねかじりの大学生であり、初心者の私にはちょうど良いクラスの自転車だった。
しかし、「ラ・スコルサ」に乗っているツーリストは一度も会ったことがないので、あまり人気がなかったのかもしれない。
同じようなクラスのツーリング車といえば、ブリジストンの「ユーラシア」とかミヤタの「ル・マン」が人気で、特に「ユーラシア」に乗っているツーリストは何人も見かけた。
さて、苦労しながらも憧れの乗鞍高原のユースホステルにたどり着いたが、走りがやたら重いと思って、良く調べると、カンティブレーキの調整が悪く、シューがタイヤの側面に接触し、アメサイドが削れて粉を吹いていた。
自分の技量不足を実感したりして情けなかった。
当時のユースホステルは多くの若者が宿泊し、中でも自転車やバイクで来る者が多かった。
そして、夜は旅の情報交換に花を咲かせるわけだが、自転車ツーリストの多くが乗鞍岳の畳平を目指すということを知った。
初心者に近い私は最初から畳平を目指すことは計画になく、翌日は上高地乗鞍スーパー林道を通り、上高地に行く予定だった。
翌朝はあいにく本降りの雨となった。
その年の夏は冷夏でよく雨が降った。
畳平を目指す猛者たちは、ポンチョを着てひとりひとり颯爽とスタートしていく。
ユースホステルの宿泊客は皆で見送り、「がんばれよ!」「気をつけて」などと、声援を送った。
自分も声援をもらう側になりたかったなどと少し思ったが、高原の雨は冷たく、上高地までの道のりだって、私にとっては楽ではなかろう。
林道の記憶はほとんど無い。
覚えているのは白骨温泉を通過したことと、国道158号線にたどり着くと、せっかくなのでと、上高地に行く前に、わざわざ安房峠まで行くこととし、峠で出会ったツーリスト2名と写真を撮って引き返したことである。
いつのまにか雨は小降りとなり、上高地を目指した。
昨日、ユースホステルで途中の釜トンネルは心霊現象多発の場所だと聞いていたので、真っ暗な急坂を必死で急いだ。
上高地に着いたときは夕刻になっていた。
大正池のほとりを自転車を押して歩いたが、だいぶ濡れていることもあり、とても寒かった。
ホテルに泊まる金などとても無いので、バスターミナルの中で野宿するつもりでいたが、夏とはいえ標高1500メートル、周りは3000メートル級の山々に囲まれた所だ。
寝袋も無しで野宿するとは無謀である。
おまけに満足な食料もない。
自分の無知と計画性の無さを嘆いても遅い。
まだ、バスターミナルは登山客や観光客が多く、暗くなるまで時間をつぶそうと、行き場もなく寒さと空腹に耐えながらぼんやりしていた。
そこは、タクシーの営業所の前だった。
中から制服を着た初老のおじさんが出てきて「中に入りな」と声をかけてきた。
しょぼくれ寒そうに立ち尽くす私を見て不憫に思ったのだ。
営業所の中はストーブがあって、天国のように暖かかった。
「行くところが無ければ、泊まっていきな」と言ってくれた。
即、迷うことなく「ありがとうございます!」と答えた。
おじさんは、松本市内のタクシー会社の社員で、夏の間、ここに泊まり込んでいるそうだ。
営業時間が終了すると、食事を作ってくれた。
「悪いけど、こんなのしかないよ」と言いながら出してくれたのは、インスタントラーメンだった。
恐らく、サッポロ一番「塩ラーメン」だろう。
涙が出そうなくらいうまかった。
おじさんは、いろんな昔話をしてくれたが、内容は一つしか覚えていない。
おじさんが、ゼロ戦乗りだったのか、整備員だったのかは忘れてしまったが、ゼロ戦の機関銃はプロペラの後ろにあるのだが、そこから出た弾がプロペラに当らないようにタイミングが調整されているという話をしてくれた。
初めて聞く話で、なるほどと思ったが、今考えると、自分の親と同世代だったのだろうなと気づく。
私は事務所のソファーを与えられ、一晩中焚かれたストーブで風邪をひくこともなく休むことが出来た。
翌朝、おじさんは、私の予定しているコースを聞いて、見どころなど、いろんなアドバイスをしてくれた。
私はその後も無事に走り終わることが出来たが、冷静に考えると、おじさんに声をかけてもらえなかったら、体調を崩し、途中で旅を終えていたかもしれない。
今でも、塩ラーメンをすすると、おじさんの優しい顔とあの時受けた親切を思い出してジンと来るのであります。
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