我が青春の子飼商店街
定年を迎えた頃、ウェアラブルスピーカーを作るのは趣味としてやっていたのだけれど、故郷の熊本に戻ってから、いろんな人たちから励まされ、世に出したいという思いが強まった。
家内制手工業というか、一人家電というか、小さい規模で、利益もそれほど追わないとしても、事業をやるとしたら、開発業務以外に、それなりの準備期間が必要なことを知り、本日もその道の専門家に教えを乞うために熊本市内に出てきたのだった。
午前中のミーティングで終わったのが十時頃、そのまま帰宅するのももったいないので、久々に懐かしい白川公園や子飼商店街あたりをぶらついてみようと思った。
白川公園がなぜ懐かしいかと言えば、大学生の頃、その公園には何軒かの屋台が並び、その中の一軒に時々通ったからだ。
といっても、同じ研究室で飲み友達になった同期の友に誘われた時くらいで、一年程度の短い期間の話だ。
私は修士課程に進んだが、二浪くらいしていた年上の同期は就職してしまい、屋台のおばちゃんも休みがちになったこともあり、自然と足が遠のいた。
ネットで検索すると、現在も一軒だけ屋台が営業しているようだ。
写真も出ている。
通っていた屋台とは違うが、お店の名前に聞き覚えがある気がする。
暗がりに暖かい色の明かりが漏れる屋台の写真は、当時の事が蘇り、涙が出そうになった。
我々は半分呂律が回らなくなりながらも、共通の愛読書である椎名麟三の作品について語り合った。
椎名麟三は、椎名誠とも椎名林檎とも椎名桔平とも関係ない第一次戦後派といわれる小説家の一人だ。
同期の友は、自分が受け入れられない事に関しては舌鋒鋭く批判するのが常だったが、彼の考えとは相容れないであろうと思われる軍需産業も手掛ける大手企業に、「寄らば大樹の陰!」と自虐的にうそぶきながら就職していった。
よく飲み過ぎる奴だったが、今も元気で暮らしているだろうか?
午前中とはいえ、この時期にしては暑いくらいの気温となり、白川公園では近くの保育園児と思われる団体が駆け回って遊んでいる。
気付くと足元に沢山のハトがのんびりと休んでいる。
実にのどかである。
約40年ぶりの公園を抜け、藤崎宮に向かいながら、途中から子飼商店街の方へと折れる。
40年も経てば、子飼商店街も大きく様変わりしているのではないか、すたれてしまったり、全く現代風の街並みに再開発されてしまったりしていないだろうかなどと、懐かしくも不安な気持ちを抱えながら、やってきたわけだが、心配無用、まるで40年前に戻った気がするほど、雰囲気は変わっていなかった。
あちこち、こじゃれた新しい店があったり、取り壊し中の店があったりもしたが、驚くほど記憶の中の風景と違和感がなかった。
平日の11時前のせいか、開店していない店も多く、シャッターが目立ち、人通りも少なかったが、午後になるときっと狭い道が賑わうに違いない。
この通路に突き出したビニールテントの屋根が懐かしい。
人ごみの中を自転車で走り、ひんしゅくをかっていたであろう当時の自分が恥ずかしい。
これらの古く昭和を感じさせる店の間から、すぐ近くにそびえる真新しい高層マンションが見えたりして、アンマッチ感が半端ない。
商店街を抜けると子飼の交差点に出るが、当時通ったパチンコ屋などが無くなったようで、結構、様子が変わっている。
このまま、黒髪の方へ歩こうと思ったが、最近歩かないせいか、腰痛になりそうな気配がするので、子飼商店街をそのまま引き返した。
商店街の藤崎宮側の出口付近に珍しいものがあった。
昆虫色の自動販売機だ。
バッタや蚕、タガメ、コガネムシやサソリまである。
しかし、買って食べる勇気はなかった。
40年前の自分を振り返ると、一所懸命、卒論に取り組み、休みには旅に出かけ、有意義に暮らしていたとは思う。
社会に出てからも、「24時間働けますか?」という言葉がはやったころなど、今じゃありえないような働き方をしていた。
そう、よく頑張っていたのだ。
しかしだ、通して足りなかったのは、チャレンジすることだったと思う。
遅すぎる事はないと信じて、今からでもチャレンジをしたいという思いが沸いた暑い一日だった。
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