自転車徘徊紀行 第12話 秘境が呼んでいる~知床~

標高差200mでもつらく感じる今日この頃、それでも、深まりゆく秋にあって、旅したいと思うのは秘境、秘湯、桃源郷などと表現される辺境の地だ。
これらの土地は、「自動車なんかで来るんじゃねー。自分の足でやって来い!」と語りかけてくるのであります。
私の訪れた秘境(と私は思う)の中には、「また来いよ」と語りかけてくるものがあって、しかしながら、容易には再訪かなわず、それならば、せめて、これまでの思い出話同様、ここで語らねばという思いに駆られるのであります。
秘境といっても、しょせん日本国内じゃねーかと言われそうだけれど、日本の四季は世界に誇る美しさ。
秘境と呼ばれる地ともなれば、それもまた格別でしょう。
まずは30年以上前の知床の旅から。

知床林道を五月に訪れたとき、まさかの冬季閉鎖中であったが、どうしても秘境カムイワッカ湯の滝の露天風呂に入りたくて、ゲートをくぐり、霧で見とおしのきかない林道をクマの恐怖に怯えながら走りつづけた。
やっとたどり着いた林道の終点、湯の滝の遊歩道の入り口、人っ子一人いないが、ここまできたら行くしかない。
自転車を遊歩道入口の案内板に立てかけると、時々ロープを伝ったりしながら、どんどん登ると、何となく滝壺らしき所に着いた。「ちょっとぬるいけど入るか」と思って服を脱ぎ始めたのだが、余りに寒いし、湯の温度が低すぎる。
そもそも浅いし、あまり滝らしくないではないかと、自分への疑いとともに、素っ裸の状態でクマが出たらどうしたものかとの思いも湧いてくる。
それに誰かがこちらを見ているような気配もするし。
五月というのに、雪まで降り出し、あっという間に辺りはうっすら雪景色となった。
結局あきらめて、恐怖の道のりを逃げるように引き返した。

やっと昼近くにウトロの町へ帰りつき、居酒屋風の食堂「熊の家」(今でも健在のようで嬉しい)で、うにどんぶりを喰らい、追加で熱燗としゃけ雑炊を注文する。
冷え切った体が芯から温まって感動。
店主に「あー生き返った」と湯の滝への往復の話をすると、「お客サン、そりゃあ、もっともっと上まで登らないとダメだ。そういや、この前、自転車の兄ちゃんが何かの気配に振り向いたら、クマが追いかけてきてたらしいよ」と冗談かほんとか判らないようなことを言う。
その時、自分の裸の死体が頭に浮かんだ。
他にも、知床はヒグマの密度が最も高いが、人を襲うことはあまり無いとか、クマが草むらに隠れてこっちを見てても、人間はほとんど気づかないとか、クマについていろんな話をしてくれた。

知床は、観光ガイドの写真などで見るとすばらしい景観であり、コロナが落ち着いたこの秋、紅葉に惹きつけられた観光客で久々ににぎあうに違いない。
しかし、私が訪れた知床は、最果てのまぎれもない無人の秘境そのものであった。
濃霧の中にぼんやり続く地道、時折現れる断崖と遥か下の鉛色のオホーツク海。
私の記憶の中の知床は色のないモノクロの風景なのだ。
それならばと、いつかは新緑や紅葉の色鮮やかな知床を訪れ、たどり着けなかったカムイワッカ湯の滝に浸かりたいと思うのだが、あのとき見た秘境の雰囲気は、その時どれだけ残っているだろうか。

※昭和から平成のはじめころ、勤務時間に上司の目を盗み、fjニュースグループに投稿した記事を追加修正したものです。